2013年に発刊された『クラウドからAIへ』を再読しました。
報道によると、AIは「過度な期待のピーク期」から「幻滅期」に移行、つまり本格的な普及段階に入る一歩手前にあるようです。
確かに1,2年ほど前は、家電,ゲーム,サービス…、あらゆるものにAIという単語が付随していました(AIの程度差は置いておいて)が、昨今は多少鳴りを潜めているように思います。
2013年時点でのAI技術
『クラウドからAIへ』が発刊された2013年は、ちょうどAppleのSiriや自動運転技術が取り沙汰された頃で、Googleのディープラーニングによる「猫」認識が話題となっていました。
長いAIの冬を乗り越えたこと、これまでとは異なったアプローチへの期待の高まりと共に、ニュースやAI関連の書籍がポツポツ出てきたと記憶しています。
ベストセラーとなった『人工知能は人間を超えるか』が2015年に発刊され、そこから一気に人工知能の一般知名度が上昇しました。2013年は AI前夜といった感じでしょうか。
『人工知能は人間を超えるか』は、Audible版も出ています。さすがベストセラー!
さて本書でも他のAI関連書と同様に、AI技術,ディープブルーが当時のチェス世界チャンピオンに勝利、IBMのワトソン、自動運転責任論、AIが雇用を奪う、に触れています。
AIは人間の存在価値を奪うか
チャンピオンが負ければ人気は衰えるのか
興味深い記述が目に留まりました。
人間のチャンピオンとコンピュータが戦う上で適切な時期というものがあるのです。残念ながらオセロでは、そのタイミングを逃してしまい、前述のような悲劇(全戦全敗)に結び付いてしまいました。
ー本文より
チェス,将棋,囲碁は、Aiとプロの実力が拮抗している段階で勝負することができました。現時点では、AIがプロ棋士より強いことは疑いのない事実でしょう。しかし、藤井プロに日本中が熱狂するように、プロ人気に決して陰りは生じませんでした。
AIが人間を打ち負かしたとしても、競技そのもの,プロへの畏敬は失われません。本書ではオセロに触れていますが、決してオセロの強者を貶めることもないでしょう。
これはピッチングマシンが人間より遥かに速球を投げるにも関わらず、プロ野球選手を貶めることはない と同構造でしょう。そういう意味で、私達はAIを道具と捉えているのかもしれません。
AIの”疑似”人格
私達はAIを道具と捉え、人間と同知性として扱ってはいないでしょう。ドラえもんの登場はまだまだ先です。
ですが、AIの”疑似”人格は順調に進歩を続けており、2014年にはチューリングテストを合格するプログラムも出現しています。
現在のAIによる”疑似”人格は、表面上のコミュニケーションであれば、違和感なく再現可能です。
たとえ不十分な人格でも、私達は愛着をもってしまいます。ルンバや、LINEのりんな、Siriなどですね。スマートスピーカーネイティブの子どもたちは、それらに人格を見出すそうです。
2歳の息子に、今度、引っ越ししてママとパパと息子の3人だけで暮らすんだよ。と言ったら
「アレクサは……」と言い出したので、完全にスマートスピーカーに人格を見出して、家族だと思っている。
AIがネイティブの世代が大きくなった頃には機械と人間の境は、自分とは全然違って映るんだろうか。— GraphersRock (@Tamio) 2018年8月6日
今後10年でコミュニケーションのあり方は大きく変容するかもしれません。悩み事を聞く程度なら、問題なくこなすAIも登場していることでしょう。
AIは科学か、技術か
AIに限らず、物事へのアプローチには2通り存在します。
・原理を解明,確立し、それらを利用して技術をつくる
・結果を出せる技術を開発し、原理に近づいていく
人間の知性のような複雑な事象に対しては、後者が採用されることも多いです。現在のAI開発も、大部分は後者でしょう。そもそも人間知性の再現ではなく、道具としてのAI開発がほとんどですが。
人間の尊厳に関わるデリケートなテーマであるため、結果ありきの現在のAI開発に対して批判的な意見も多くあります。両者はAIに対する考え方が異なるため、相容れることは難しいでしょう。
『記号創発ロボティクス』では、後者を構成論的アプローチとして触れていました。
反証主義に基づく実験科学の方法論を適用しがたい対象領域には、その対象領域にあった方法論を持って接近せざるを得ないのだ。
(途中略)
この実装された計算知能が、うまく実世界で動き、所望の振る舞いを示すならば、その振る舞いを生む知能の動作原理の一つの可能性を、実装したモデル理解の範囲において、私たちは理解したと言えるのではないだろうか。
ー『記号創発ロボティクス』より
本質を究明する重要さは理解できるものの、頭ごなしの議論だけでは物事は前に進まないのも事実です。どちらが優れているというわけでなく、対象によってアプローチを変えながら、真理に近づいてくことが科学のあり方のように思います。
まとめ
”疑似”人格にしても、「コミュニケーションをとってくれる」道具としてAIを扱っているのが、2018年現在のAI観だと思います。
今後 技術がさらなる発展を遂げたとき、私達はAIをどう捉えるようになるでしょうか。生まれたときから技術に慣れ親しんだ子ども世代は、難なくAI人格に対応するかもしれません。
そういった世代間差が まだ見ぬ軋轢を生じさせるのか、あるいは(ドラえもんに慣れ親しんでいることで、)全世代が一様にAI人格を受用できるのか、若干の不安と、それに勝る楽しみを抱いています。