わかっていても そう見える『錯覚学ー知覚の謎を解く』

 

同じ長さであっても異なって見える、ミュラー・リヤー錯視

出展:Wikipedia 「錯覚」

右回転?左回転?ずっと見ていると回転方向が変わる?シルエット錯視

これらの錯視を一度はご覧になったことがあるでしょう。

今回は視覚に起因する「錯覚」について、実例とその原理、また人がなぜ 錯覚を獲得したか、錯覚の利用 をまとめた『錯覚学ー知覚の謎を解く』をご紹介します。

「正しく」みるとは

錯覚があるとわかっていても そう見えてしまう、のが錯視の面白いところですね。こちらのページに代表的な錯視がまとめられていたので ご紹介します。うーん目がチカチカする。

錯視の正体を突き詰めるには、2つの方向性があるようです。

第一に、錯視を引き起こす必要最小限の条件を特定するという方向性である。(中略)検討対象となっている錯視現象が成立する必要最小限の条件を探し出すことが試みられている。

(中略)

もう一つの方向性は、それぞれの錯視を顕著に成立させるための条件を探すという、錯視の最適化を目指す研究である。(中略)錯覚を最適化することは楽しさを得るだけではなく、視覚の研究にとっても豊かな方法論なのである。

ー本文より引用

前者は錯視を錯視たらしめている要素を抽出すること、後者は最適化によって 何がより錯覚を引き起こすかを検証する方向性になります。

錯覚をより最適化する、という方法は面白いですね。得てして オッカムの剃刀のように、最小限の要素を抽出することを重要視するものですが、影響性を増すファクターを見出す方向性も研究の大切な一要素です。こちらの方が面白そうですしね(笑)


色彩学習の第一歩『光と色彩の科学』』では、色は感覚量であることを述べました。人間は刺激を脳で処理することで、物を感じているのです。つまり実際の刺激と、主観的に感じる感覚の強さには隔たりがある可能性があります。

人の知覚量について 変化が知覚できる刺激量には、ヴェーバー‐フェヒナーの法則とスティーブンスの法則と呼ばれる法則があるそうです。

簡単に言うと 両者とも視覚を含めた五感において、「実際の刺激量が大きくなると、感覚量では差異を感じにくい」ことを指します。例えば、味の微細な変化は敏感に感じ取れますが、ある辛さを超えると もう辛いとしか感じない。数gの重さの変化は感じとれても、物が重くなるほど差分を感じにくくなる、等です。

この乖離が 錯覚を引き起こす一因となります。進化の過程で、生存上 重要な感覚量が研ぎ澄まされた結果、錯覚が生じるようになるのですね。

生存のためには、何でも「正しく」見えればよいわけではない。たとえ正確さが犠牲にされて、全体的な構造が破綻しているような見えが得られたり錯覚が生じたりしたとしても、生存にとって十分な特性させ見間違えず、大雑把な構造的特性の情報が得られれば生き残っていける。

ー本文より引用

長い時間をかけて進化によって獲得してきた「感覚」人間は身体が弱い分、周囲の環境を変化させることで大きな繁栄を遂げています。このような生物は他にはいません。現在では周囲環境が急速に変化しており、感覚が環境に適応しない潜在的な危険性を警鐘しています。

自動車の運転は 高速で動く周囲環境を的確に認知して、自車をコントロールする必要があります。それを確実に遂行できないため、交通ルールが存在しているのです。自分の感覚を絶対視してはいけませんね。

メタ認知

錯覚があることを認識するように、本書では自らの感覚を客観的に認知するメタ認知の重要性を説いています。自らの感覚は絶対的なものではないことに悲観せず、感覚と実際値の差異を正しく認識することが重要です。

心理的にも大きな意味があるでしょう。「自分の感覚が絶対ではない」、こういう度量の広さを持つことで、画一的な見方や考えを避ける心理を醸成できます。

人の感覚は正確ではないため、私たちは道具の補助を受けています。時間を正確に測るストップウォッチ、重量を測定する重量計など。スポーツ判定でも機械判定は一般的ですね。プロ野球でも2018年度からリクエスト制度によるビデオ判定が使用されています。

機械判定は正確である一方、剣道の残心,フィギュアスケートの表現力などは人間の感性によって判定されています。この点に、これらのスポーツの好き・嫌いが反映されているように思えます。いずれにせよ、機械判定では まだまだ評価が難しい 人間の感性に訴える感覚があることは確かでしょう。

今後、このような感覚量も特徴量として抽出され、人工知能で採点されるようになるのでしょうか。未来が楽しみですね。

まとめ

錯覚の紹介にとどまらず、錯覚がどう獲得されたか,なぜ生じるのか,錯覚をどう活かすか についても触れられた本書。錯覚を一覧としてまとめた書籍,Webサイトとは一線を画す内容となっています。

感覚を疑い続けた結果、「我思う、ゆえに我あり」に行き着くのでしょう。やはりデカルトは偉大だ…。感覚は絶対でないことを認識し、安全運転を心がけましょうね(笑)。