技術の発達によって、五感の内 視覚と聴覚は再現も、また通信を介した転送も可能となりました。
これら2つは物理量で比較的再現が容易いです。(同じく物理量の触覚は、材料的に再現が難しく普及には至っていません。)
一方 化学量である味覚と嗅覚は その再現だけでなく、センシングさえも難しいとされます。
本書『嗅覚ディスプレイ』は、嗅覚をモニタリングする難しさと、現在の最新技術を教示してくれています。
「におい」とは
野生環境から逃れ、自分たちに都合の良い社会を構築する能力を身に着けた人間にとって、主感覚は「視覚」です。その情報量は、他感覚を大きく凌ぐと言われます。
一方 野生動物には、「視覚」以外の感覚に重きを置いている生物も多く存在します。犬、クマなどの優れた嗅覚能力は有名です。
人間は生存競争への感覚ではなく、「嗅覚」を異なった機能へと利用しています。
料理の楽しみ,お香・香水などのアロマテラピーがその一つですね。「良いにおい」とは、大多数が心地よく感じる匂いで、生存競争とは一切関係がありません。こういった社会規範に則り形成されたにおいを本書では「社会的なにおい」と形容されています。
本書で取り上げられている、もう一つの機能が「情報通信としてのにおい」です。都市ガスは本来においはありませんが、漏れを検知するために付与されたものです。つまり都市ガスが危険という情報を担っています。
においがもつ心理的作用として、記憶の呼び覚まし(プルースト効果)があります。においを嗅ぐことで、昔の情景がはっきりと思い浮かびます。
嗅覚は大脳辺縁系と直接結びついているため、行動や感情に作用すると言われています。そのため、においによって思い出されるのは、状況そのものより状況によって引き起こされた感情、という実験結果もあるそうです。楽しさ、怒りなどの感情的な記憶がにおいと関連して記憶されるそうです。
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においの持つ効能を利用するため、においの再生を行う装置が「嗅覚ディスプレイ」と呼ばれます。
人間の嗅覚
嗅覚ディスプレイを構築する上で、人間の嗅覚の仕組みを理解することは必須です。
においの前に、視覚について再確認してみます。こちらの記事でも触れているように、人間は3つの錐体細胞を有する3色型色覚です。つまり、人間が感知できる色彩は3項のベクトルで表記されます。
一方 嗅覚では、におい受容体が約350種、all or none的に動作します。すなわち 約350ビットの2進数となり、100桁超の組み合わせを再現できます。これにより におい物質40万種を感知できるのです。350次元のデータは、デジタルデータ再現としてかなり難易度が高くなります。
また、におい物質によって 嗅覚への感度が大きく異なります。においを構成する物質の濃度と、においの感覚量は異なるのです。また感覚量一般の特徴として、「実際の刺激量が大きくなると、感覚料では差異を感じにくい」があります(ヴェーバー‐フェヒナーの法則)。
ヴェーバー‐フェヒナーの法則は以下の記事でも触れています。
以上のように、多量の次元をもつベクトル量であること、人体の嗅覚特性を正確に把握しなれければならないことが、嗅覚ディスプレイを難しくさせています。
上でも述べたように嗅覚は感性に作用します。においという感覚量だけでなく、においよってもたらされる感性情報が混在することになります。単純に感覚を再現すること以上の難しさが 嗅覚にはあります。
においと他感覚の関係
においには、色との結びつきがあります。においによって特定の物体を想起させ、その物体の色がイメージとしてリンクします。においは重量感とも関連があるようです。物体を軽く感じさせるには、「透明な」「明るい」といった印象と相関が高いにおいが効果的だそうです。人間は感覚を複合的に処理していることがわかりますね。
嗅覚から視覚にも影響があるとされます。においの付加によって、人の印象も大きく変わるそうです。においを感知できないレベルでも印象に差異は生じるようで、視覚のみならず嗅覚へのサブリミナル効果もあり得るのかも知れません。人は見た目が9割と言いますが、少なからずにおいも影響しているようですね。
また同じにおいであっても、それが言語を付加して(例えば、お香の匂い, カビ臭い地下室)提示されると、においの印象はわかれるようです。言語がにおいの嗜好に影響を与えていることが示唆されます。
言語が思考に影響を与えていることは、以下の記事で触れています。
においの計測
本書では、濃度センサ,QCMセンサなどの、各種匂いセンサが紹介されております。これらはにおい源そのものを測定する手法です。
嗅覚は多量なベクトル量をもつことは上でも述べました。におい源の構成物と濃度が判明しても、「におい」そのものは識別できていません。そのため、得られたデータに対して統計的処理や、ニューラルネットワークを施すことで、においが識別されます。
においの感覚量を測定する「オプティカルイメージング」が興味深かったです。感覚量は、一般に官能評価で実施されることが多いですが、定量化しにくいという問題があります。感覚量を測定量に落とし込めると、より実用的で再現性が増しますね。
砂糖と代替甘味料の評価が実験例と示されていました。独特な渋みが残る代替甘味料に、砂糖イメージのシュガーフレーバーを付与することで、代替甘味料と砂糖の反応量が近づいたそうです。
まとめ
普段 中々意識することのない「におい」について楽しく学ぶことができました。
ここでは触れませんでしたが、本書では他に においを再現する機構、においを記録する方法 などが紹介されています。
VRで嗅覚を含めた五感が再現される未来が待ち遠しいですね。